2006年10月14日
『康くんが教えてくれた』
康くんへ。
ずいぶん長いことお参りにも行かずごめんね。お母さんと久しぶりにお話したよ。弟・のぶくん夫妻にお子さんができてご両親もうれしい忙しさのご様子。康くんもきっと近くでご家族を見守っていることでしょう。
「森田さんは康くんにとって最初で最後の恋人だから。大好きだったから、一方的だけど」お母さんは昔から私にそうおっしゃる。今日もお電話で笑いながらそう話していらした。ははは。照れるねー。
康くんに出会ったのは私が22歳の時。テレビ局に入社した年の冬でした。私が担当させていただいていた朝の番組に、お母さんがお手紙をくださいました。
その時初めて康くんの病気を知りました。初めて聞く病名にわけがわからず、お父さんやお母さんにお話を聞きながら必死であちこち調べました。今のようにどこででもインターネットが簡単にできる時代ではなかったしね・・・。
康くんと最初に会った時、日焼けの後のようなシミが体全体に広がっているのを見てとても驚きました。すでに神経障害や様々な症状が深刻化してきていた康くん。よく笑ってみんなと一緒にいるのをすごく喜んでくれてたよね。家族や私たちのことを目で追いながら気遣ってくれていた。ご家族ほどではないけど次第に康くんの言葉もわかるようになったよ。いつも「もりたさん、もりたさん」を連発してくれてたよね。
年を重ねていくうちに症状がさらに悪化してきた康くん。体もやせて話も出来なくなってきてそれでもご家族や近所の方々、私たちの存在に「ささやかな反応」をしてくれていました。「テレビで森田さんを見ると必ずわかるのよ」。お母さんがそう伝えてくださるたびに、「康くんとつながっているなぁ」って思っていました。
危篤の時、病室で会った康くんの姿、
棺に納められた康くんの姿も今でもはっきり覚えてます。
火葬場でね、康くんを最後に送る時「もりたさん」という康くんの声が私の中で響いていたよー。
康くんがいなくなってからも康くんのご家族と長く深くお付き合いをさせていただいているんですよ。ディレクターも私も「取材」を通しての関わりだけでなく、公私共に本当にお世話になりっぱなし。ディレクターのMさんは二人の娘さんのデレデレパパ。そしてドキュメンタリーの取材や日々の取材の中で問題提起をしているみたい。カメラマンの通称「ジョン」も二人のお子さんのパパ。今はフリーカメラマンとしても活躍中。
康くんのことを忘れたことはないよ。アナウンサーになって間もない頃に出会ったことで私の方向性も考え方も変化しました。日々の私を支えてくれているものに「康くんの存在」があります。ありがとうね。
10月11日(水)のフレモニの放送でね、インタビューコーナーが終わった後スタジオで号泣してしまった。曲が流れていたからよかったけど。自分の力の無さや弱さを痛感し、康くんのことも同時に蘇ってきてねぇ。泣いたって仕方ないのに。私は泣いて終わればそれでいいのかもしれないけど・・・って思うと、また泣けてきて。情けないね〜。
すっかりごぶさたして罰があたりますね。特に10月になるとすぐ側に康くんがいるみたい。命日はご家族のところに行ってるかな。
「色素性乾皮症」公式ホームページ
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